フシギな話:「死が怖い」件について

僕は幼い頃から、宇宙やら命やら自分の意識やら、そういったフシギなテーマについて悶々と考え込んでしまうクセがある。
「死」はその中でもかなりビッグなトピックになるわけだが、 何故か時期によって「死が全然怖くない」タイミングと「死が怖い」タイミングがあり、 今現在、ここ数日は死がめちゃくちゃ怖くなってしまったので、考えたことを徒然と記す。

今この瞬間の異常性

まず、ここ数日死がめちゃくちゃ怖くなってしまったきっかけを話したい。
いま、僕は妻と飼い猫と暮らしている。 数日前の夜、例によって妻と猫と川の字で眠りにつこうとしていた時。 「平和な時間だなあ」と感じつつ、 ふと、 その瞬間の感覚、そのピースフルな感情や、 薄暗い寝室のなかで肌に触れている妻や猫の体温、 そしてそれを認識している自分、 それらが揃ってここに存在していること、 それがもの凄く異様に感じられた。
もしこれが、高齢の自分が追想している夢だったら? 次の瞬間、病床で死を待つ自分に戻ってしまったら? あるいは、子供の頃、気づかないうちに事故に遭い、死の瞬間を迎える自分の走馬灯がずっと上映されているのだとしたら?
突飛すぎるかもしれないが、そのように、目の前の現実があまりにも不確かなものに感じられたのだ。
例えば、「いまあなたは何歳ですか?」と質問されたならば。 80歳の僕も、10歳の僕も、今現在の僕も、間違いなく正確な自分の年齢を答えるだろう。 当たり前だ。
今現在の僕は、10歳の僕を追想することも、80歳の僕を想像することもできる。 が、僕自身はそのどちらでもなく、明確に今現在を生きている。
生まれた瞬間から死ぬまでを1枚の年表にしたならば、今これを書いている僕は2022年を指差して「今ここ」と言うだろう。 どの年齢の僕だって同じく、正しく指し示せる。
過去の僕も、未来の僕も、明確に「いまの瞬間」を感じている。 ただ、僕にとっての現在は、どう足掻いても今この2022年だ。 僕にとっては10歳は過去でしかなく、80歳は未来でしかなく、それに比べたらいま僕の意識のピントが合っている「現在」は、あまりにも特別だ。 過去にも未来にも確かに自分の意識は存在するが、そのどれよりもめちゃくちゃ濃く、ありありと実感できるのは「いま現在」だけだ。
「今」とは何なのだろう?
この現実が、上映中の1本の映画のようなものであるのならば。 「今のシーン」は明確に1つしか存在しないわけで、つまり確実に「今」の定義は存在し、絶対的なものだ。 誰が何を言おうと、全ての存在が一緒に、特別な「今」である2022年を進行中と言えるだろう。
だが、科学が導き出した答えは違う。 「今」は相対的なものだというのだ。 同じ地球で生まれた存在でも、宇宙飛行士やパイロットの「今」は、ずっと地球上で暮らしている私たちより少しだけ先の時間軸にある。 映画を流しているスクリーンが無数にあり、そしてそのそれぞれが、別なシーンを流しているというのだ。
ではなぜ、どういうわけがあって、僕にとっての一番特別で色濃い「今」は2022年なのだろう。 「一番色濃く映る『いま現在』は2022年である」ことを規定して、保証しているのは何なのだろう?
過去の自分も、未来の自分も、今の自分も、地続きの時間を生き、昨日あとには今日があり、今日のあとには明日が来る、という世界を生きているのは間違いない。 でも、もしかして自分の意識のピントと、この世界とは全く別軸で、いきなり意識が未来に行ったり過去に行ったりする可能性は本当にないのだろうか? そうしたら、いきなり「死の直前」に飛んでしまう可能性もあるのではないか?
そんなことを考えていたら、「今」があまりにも不確かに感じられ、 また同時に、その裏返しであまりにも貴重なものにも感じられ、 こんな突飛な発想に囚われ、今現在の「生」と未来の「死」の境目が極めて曖昧なものに感じ、死に恐怖してしまった。

「いつか来る死」と「夏休みの終わり」

上で述べた僕の恐怖はすこしフシギというか、ちょっと変わった発想の仕方かもしれない。 ただ、「いつか来る死が怖い」ということ自体はほとんどの人に共通していることだろう。 では、その恐怖はどのような性質のものなのだろうか? 僕なりに紐解いて考えてみた。
ストレートに考えれば、大抵の人にとっての死の恐怖とは、今確かに存在している自分の意識が存在しなくなることへの恐怖だろう。 そんなの怖いに決まってる。 現在進行形で五感で知覚し、もの考える自分という存在自体が消滅するなんて想像もしたくないことだ。 そんなかけがえの無いものを失うなんて、怖すぎる。
でも待ってほしい。 逆に、親によって生を受けるまで、その「かけがえの無いもの」は存在しなかったのも事実だ。 得たからこそ、失うのが怖い。でもだからといって、決して「失うくらいだったら最初から無くて良い」とはならない
それって、「夏休み」みたいじゃないかと、僕は思う。 夏休みは、その瞬間瞬間は最高だが、心のどこかで終わりへの切なさを意識し続け、そしてその切なさは終わりが近づくほど強くなる。 「人生」と「死」という関係性と、似ている気がするのだ。

「死」の恐怖の正体と死刑囚

念のための補足として、今から示す例えの裏に「死刑制度」や「犯罪者の人権」等について何ら特別な思想は込めていない。 僕は例え話に死刑を引用しているだけで、罪は罰せられるべきだし、あらゆる人の命は尊いという一般常識的な感覚を持っているということは念を押しておきたい。
結論から言う。
僕が考える「死の恐怖の正体」とは、前項で話していたような「今確かに存在している自分の意識が存在しなくなること」ではなく、「満足のいく時間を過ごせないこと」だと思う。
死刑囚の話をしたい。
死刑囚は、ある日の朝突然声をかけられ、死刑を執行される。 自身の生殺与奪の権利が自分に存在しないのだ。 それって、もの凄く怖いことだ。 怖いからこそ、人々が恐れるからこそ、犯罪の抑止として死刑制度が発明され、今この時代も残っているのだろうと思う。
では、その恐怖の正体は、「今確かに存在している自分の意識が存在しなくなること」だろうか? 僕は少し違うと思う。 だってそれは、全人類・全生物共通で抱えている前提だからだ。 国を統べ偉業を成し遂げた王や、何不自由無く暮らす大富豪たちも、いつかその瞬間を必ず迎える。 もし死刑が携える恐怖の正体が「今確かに存在している自分の意識が存在しなくなること」なのであれば、究極的に乱暴な言い方をすれば、全人類が死刑囚ということになってしまう。
でも、そんなわけはない。 僕たちのなかで王や大富豪と、死刑囚とはあまりにも違うはずだ。
では死刑が携える本当の恐怖とは何だろう? 死そのものでないとすれば、ほかの死刑囚と死刑囚以外の差分を鑑みれば、死までの自由が縛られていることではなかろうか。
誰にでもいつか来る「今確かに存在している自分の意識が存在しなくなる」という死の瞬間。 その瞬間に向かう最中、僕たちは幾度となくその瞬間を憂い、死に恐怖する。
でも幸いなことに人生は自由度に溢れており、「死」のことを考えていられないような、体験しきれないほどのイベントが用意されている。 それらの自由を全て奪い、過去の全てを「悔い」と認識させ、「死」に意識を集中させるということが死刑が携える恐怖の本質ではなかろうか。
転じて考えれば、死が怖くてどうしようもないときは、死の恐怖、つまり「自由で満足のいく時間を過ごせないこと」の逆を行けば良いのではなかろうか。 死の瞬間まで「死」に注意を向けている暇がないほど、この上なく自由で満足のいく時間を過ごしつづけるのが、最善策なのではなかろうか。
もし病床などで、身体の自由がなかったとしても。 心の自由は残っているはずだ。 僕なら、その自由な心で、今までの人生、美しい思い出たちを追想することに全力を注ぎたい。
きっとそれはあまりにも忙しくて、新学期について考える暇もないくらいに、あっという間に、優しく、夏休みの終わりを迎えられるはずだ。