青森ねぶた祭りのDMT的サイケデリック性

Date
2022/08/08
Update
2022/10/30 9:38
Tag
アート
サイケ
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コロナで中止されていたねぶた祭りが3年ぶりに実施されるということで、見物してきた。
迫力のある「ねぶた」。そのあまりのサイケデリックさに圧倒されつつ、そのサイケデリック性はどこから来ているのだろう?という疑問が湧いてきた。

「お祭り」はそもそもサイケデリック

もちろん、土着的な伝統文化というものは世界共通でサイケデリックだ。
僕が敬愛する「AWAKEN」や「SAMSARA」などの映像作品が世界各地の風習やお祭りの映像を多用していることからも、それは自明だろう。
夜道に煌めく御輿、太鼓のビート、熱狂的な踊りと掛け声…ねぶた祭りは、「祭り」としての素晴らしいフォーマットを携えている。
だから、ねぶた祭り自体がサイケデリックなのはいわば当たり前だ。
大迫力の「ねぶた」の行進
大迫力の「ねぶた」の行進

「ねぶた」のサイケデリック性

僕が不思議さを感じるねぶたのサイケデリック性は、そのデザインだ。
神輿であるねぶたのデザインが、あまりにもDMT的(※詳細後述)なのだ。
上記動画に写っているのは「青森ねぶた」に加えて、以下の「五所川原の立佞武多(たちねぷた)」の写真を見て頂きたい。
立ち並ぶ立佞武多たち
立ち並ぶ立佞武多たち
立佞武多「かぐや」
立佞武多「かぐや」
「かぐや」の側面。極めてDMT的だ。
「かぐや」の側面。極めてDMT的だ。
ねぷた本体ではないが、立佞武多の館に展示されていた絵画。こちらも「海獣の子供」を連想するサイケな世界観が現れている。
ねぷた本体ではないが、立佞武多の館に展示されていた絵画。こちらも「海獣の子供」を連想するサイケな世界観が現れている。

見出されるサイケと込められるサイケ

何かをサイケデリックだと感じるとき、受け手の解釈に依るケースと、つくり手が明確に意図を込めているケースに分けられるだろう。
一般的な「祭り」が全体的にサイケデリックだ(※)という話はどちらかというと前者で、受け手の感じ方に依るものが大きい。
ただ、「ねぶた」は明らかに後者で、「作者」によってデザインに込められた明確なサイケデリック性を感じざるを得ない。
※「祭り」に限らず、突き詰めればこの世の森羅万象すべてがサイケデリックだとも言える。ややこしいが、その事実自体を「つくり手が明確に込めた作品」の代表こそが「ボヤージュ・オブ・タイム」だろう。

LSD由来のサイケとDMT由来のサイケ

明確なサイケデリック性を携えたアートには、60年代のヒッピームーブメントに代表されるLSD由来のサイケデリック観を表現したものと、DMT由来のサイケデリック観を表現したものに大別されると僕は考えている。実際にはもっと多種の流派があるだろうが、少なくともその2つは全く異なる文脈だ。
LSD由来のサイケデリックアートは、いわゆる広く「サイケデリックアート」として認識されている、色彩豊かでグニャグニャした紋様が特徴のアートだ。
「LSD vision,detailed」でMidjourneyが生成した画像
「LSD vision,detailed」でMidjourneyが生成した画像
対してDMT由来のサイケデリックアートは、複層的、反復的、全ての方向が合わせ鏡になっているようなシンメトリーさと、自他の全ての境目が曖昧で融合しているような特徴がある。
「DMT vision,detailed」でMidjourneyが生成した画像
「DMT vision,detailed」でMidjourneyが生成した画像
LSD由来のサイケデリックアートは、もちろん物質としてのLSDが発明された後に発展したものだ。
他方、DMT由来のサイケデリックアートは太古から存在すると考えられる。なぜなら、DMTはあらゆる生命の体内に内在しており、とりわけ含有量の多い植物を利用した南米の儀式「アヤワスカ」に代表されるように、人類が摂取するための環境がもともと存在していたからだ。
また、人の体内においても、瞑想をすることによって、あるいは死の瞬間に「臨死体験」を引き起こすものとして、DMTが生成されるという説もある。(この説はとても好きなのだが、いまのところ明確なエビデンスは無いようだ)
だからこそ、仏教の「曼荼羅」などに代表される宗教的アートにはDMT的な世界観が垣間見えるのだろう。

「ねぶた」のDMT的世界観の源泉はどこか

現代のDMTアートであれば、アヤワスカなどで直接的にDMTを摂取した際の体験を表現しているだろうし、宗教的なDMTアートであれば、代々瞑想や宗教的体験を積み重ねてきた修行者たちが紡いできたイメージを表現しているのだろうと思う。
では「ねぶた祭り」にDMT的世界観を持ち込んでいる「作者」はいったいどこにいるのだろうか?
「ねぶた」は神仏などを題材にする日本のお祭りであるゆえ、歴史の中で徐々に宗教的なDMTアートと合流したと考えるのが自然だが…
現在の「ねぶた師」たちが宗教的、ましてや直接的なDMT体験と近しい位置にいるとは考えがたい。彼らは日本の職人であり、修行者として瞑想をしているわけでもないだろうし、ドラッグユーザーであるはずもない。
なのになぜ、本流の文脈と全く遜色がないほどに、これほどDMT的なディテールが「ねぶた」に表現されているのだろう。
これ自体はもちろん答えのない問いだ。
だが、もし、言語を問わず、文化を問わず、「祭り」という人類の風習のフォーマットのなかにDMT的世界観に通底しているのだとしたら。そして、伝統的な「ねぶた祭り」を受け継ぐ職人たちが感じてきたイメージ、彼らが祭りのつくり手・受け手として感じてきたサイケデリックなイメージが、「ねぶた」のデザインという形で代々受け継がれているのだとしたら。
それって、あまりにも素晴らしくてサイケデリックな事だなと思うのだ。