フシギな話:他の意識に触れる事

家族、子供、友達、ペット、同僚… どんな人でも、人間でなくともよい。 自分が生きていく中で触れるそれらの存在、 それらの「意識」をすべて混ぜ合わせてブレンドしたものがあったとする。 それって、自分の意識(自分の思考や見ている光景)それ自体と近しい形をしているのではないだろうか、と思った話。
つまり、自分の意識とは、周囲に存在している意識によって形作られているものなのではなかろうか。
自分が子供の頃、90年代くらいまでの世界においては、自分の意識の形、つまり「自分からみた光景」の中は、家族やら仕事やら、物理的に近い存在しか居なかった。 が、インターネットが生まれてその光景があまりにも激変している。 離れ離れの旧知の友人たちとLINEで毎晩のように会話をし続けられるという、世界の景色のアップデート。 それは、それが出来なかった世代と比べると、あまりにも大きく深い意味をもつ。
そりゃ、ベースの価値観も全体的に変わるだろう。 年賀状、会社の飲み会、近所付き合い… その手のものがメジャーだったのは、当時の「自分の光景」を豊かで安定したものにするための手段がそれくらいしかなかっただけなのだろう。 新しい世代は決して薄情なわけではなく、それら手段は「非効率だから不要」としているだけなのだ。 むしろ彼らは、自分の景色の中にある意識に対して、上の世代よりも密に丁寧にコミュニケーションを取っているはずだ。